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藝人:伊藤久男
專輯:イヨマンテの夜 ~ 懐かしの歌声名曲集
年份:1994
曲目:01. イヨマンテの夜
   02. あざみの歌
   03. 高原の旅愁
   04. 山のけむり
   05. たそがれの夢
   06. 草山に
   07. ブラジルの太鼓
   08. 君いとしき人よ
   09. 白蘭の歌
   10. 湖上の尺八
   11. サロマ湖の歌
   12. お島千太郎旅唄
   13. シベリヤ・エレジー
   14. 熱砂の誓い

伊藤久男是 Kate 介紹才認識的。剛開始談是因為施文彬有翻唱他的歌,後來聊到原唱人,再經由 史前巨鱷 大力相助終於得以聽到原曲,伊藤久男蕩氣迴腸的歌聲真是聽得令人久久不能自已。關於這段往事請參閱這篇舊文:伊藤久男 vs 施文彬 - 君、いとしき人よ vs 請問芳名

去年我有去日本玩,當然會逛唱片行。我不會講日文,就直接把想找的CD寫在小本子上給店員看,她是個年輕女孩,看我筆記本上寫著「伊藤久男」,搖頭跟我說抱歉,然後就跑去叫了位像是經理的中年人來。那位中年阿伯看著我寫的「伊藤久男」,再用狐疑的眼光看著我,然後還是果決迅速的從附近架上抽出一張伊藤久男的精選輯給我,順便跟我說:「This is the only one」。所以就買到了伊藤久男的這張精選輯,真是好聽,連我媽都搶著聽。

網路上很難找伊藤久男的中文介紹資料,能知道這號人物就很厲害了。乾脆直接抄日文維基的資料,光看那些漢字也可以懂個七八成。


歌手として

生家は福島県安達郡本宮町(現本宮市)の旧家。父親は立憲政友会所属で県会議員を務めた伊藤彌[1]、兄は自民党所属で衆議院議員を務めた伊藤幟である。たいへん裕福な家庭で、当時はまだ珍しかったピアノに没頭し、中学の頃にはピアニストを志望するようになる。家族親族の反対を押し切り単身上京、音楽を生業とすることに反対していた家族へのカモフラージュのため東京農業大学に入学。その後、同郷の新進作曲家古関裕而と懇意になり[2]、家族には知らせず農大を退学、帝国音楽学校に進む。同校では同郷の声楽家平間文寿に師事する。

農大を退学したことが家族に知られ毎月の仕送りが止まり、音楽学校の同級生とともにコロムビア吹き込み所で合いの手や囃子の吹き込みのアルバイトを始める。ピアニスト志望だった四三男としては不本意だったが、これが後に作曲家やディレクターたちの耳に止まることになる。

1932年(昭和7年)、古関裕而の勧めにより、1933年(昭和8年)6月25日付で「伊藤久男」名義でリーガル(コロムビアの廉価盤)から「今宵の雨」でデビュー。コロムビアからのデビューは同年9月の「ニセコスキー小唄」で、宮本一夫の名前で発売。出身地本宮をひっくり返した芸名だった。[3]その間、アルバイトでタイヘイで内海四郎名義でもレコーディング。その後、コロムビアでは伊藤久男、リーガルで宮本一夫を使用していたが、1935年(昭和10年)「別れ来て」の発売を機に芸名を伊藤久男と改める。

戦中・戦後

伊藤久男の抒情性豊かなバリトンは定評があり、その歌唱法で昭和10年代前半から戦時歌謡のレコーディングが多く、伊藤久男としての初めてのヒットは1938年(昭和13年)「湖上の尺八」(2月20日発売)。慰問演奏で藤原義江に抒情的なバリトンを流行歌手として生かすことを奨められる。一時期はオペラ歌手としての進路も検討したが、1938年、大陸戦線に服部良一、赤坂小梅らと慰問に訪れた際、自分の歌に涙を流す兵隊の姿を目の当たりにし、流行歌手としての途を選択した。

その後、「暁に祈る」「白蘭の歌」「高原の旅愁」「お島千太郎旅唄」と連続してヒットを飛ばし、スター歌手としての地位を確立した。1940年(昭和15年)、日劇のアトラクションに出演し、伊藤が歌う「熱砂の誓い」を客席で見た岡本敦郎は、その歌声に感動し、歌手になる決意をしたと述懐している。

一方、朴訥とした台詞回しながら多くの映画にも起用され、1939年(昭和14年)松竹映画「純情二重奏」に流しの芸術家として、1940年「暁に祈る」には歌う兵隊として、さらに1942年(昭和17年)には大映映画「歌う狸御殿」には村の青年役としてスクリーンにも活躍した。

終戦直後は、戦時歌謡を多く歌った責任感から疎開先に引きこもり酒に溺れ、[4]再起不能とも言われたが、1947年(昭和22年)松竹映画「地獄の顔」(監督:マキノ雅弘)主題歌「夜更けの街」でカムバック。その後は、「シベリア・エレジー」「イヨマンテの夜」「あざみの歌」「山のけむり」「君いとしき人よ」「数寄屋橋エレジー」「ひめゆりの塔」など様々なジャンルでヒットを飛ばした。殊にラジオ歌謡においては詩情豊かな抒情歌が多く、「たそがれの夢」は本人もかなり気に入って、晩年まで愛唱していた。

名作曲家古関裕而と伊藤久男

伊藤は同郷の作曲家・古関裕而の作品を多くレコーディングしている。「露営の歌・続露営の歌」「暁に祈る」「海底万里」といった戦時歌謡から、「イヨマンテの夜」「君いとしき人よ」といった歌謡曲、また、現在でも夏の高校野球全国大会で歌われている「栄冠は君に輝く」までも伊藤の創唱によるものであった。

紅白歌合戦には1961年まで出場。古関裕而のクラシックの格調は、美しいテナーの音色で歌う藤山一郎に代表されるが、古関メロディーのドラマティックな抒情性は伊藤久男のリリクな歌唱によって声価を高めた。

伊藤の人柄と病魔に悩まされた晩年

性格はまさに豪放磊落。酒をこよなく愛し、誰からも「チャーさん」の愛称で慕われた。一方で、異常な潔癖症で、常にアルコールを含ませた脱脂綿を消毒のために持ち歩き、閉所恐怖症のためエレベーターには乗らなかったと言われる。

日本歌手協会の設立にも尽力し、後進の指導にも力を惜しまなかったが、晩年は酒豪が祟り糖尿病のためインスリンの注射に依存。昭和50年以降には、注射による低血糖発作で震えながらステージを務め、痛々しいものがあった。

NHKの歌番組ステージ101に出演していた歌手伊藤三礼子は長女。また、弟で次男の悟も出演していた(後に「伊藤さとる」名義で1980年頃、郷ひろみのバックコーラスを担当したといわれる)。

1978年(昭和53年)に紫綬褒章受章、1982年(昭和57年)には第24回日本レコード大賞特別賞を受ける(この受賞の際中継で顔出し出演していたが、伊藤が公の場に姿を見せるのは、これが生涯最後となった)。翌1983年4月、肺水腫のため死去、享年72。勲四等旭日小綬章受勲。

※ 本文轉載自「日文維基」※


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